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ここまでの話をディープパープル風(※1)に振り返ると・・・ 結成~第一期(1997~1998年) エイスケイチコン(Gu) タクヤイチコン(Ba) 第二期(1998~1999年) エイスケイチコン(Gu) タクヤイチコン(Ba) シンスケイチコン(Dr) という流れである。そしてこのあと、 第三期(1999年~2000年) エイスケイチコン(Gu) タクヤイチコン(Ba) シンスケイチコン(Dr) アキライチコン(Gu) ということで、アキライチコンがこのあと加入している。 アキライチコンもイチコンメンバーと同じ大学の学部仲間であったことから第一コンバットに加入したのであるが、正直、いつどういうタイミングで入ったのか思い出せない。 ただアキライチコンが加入した頃に当時人気がうなぎのぼりだったミッシェルガンエレファント(※2)をコピー練習していたような気がする。そしてそんなミッシェル好きなアキライチコンもフェンダーのテレキャスを使用していたのではなかっただろうか。 アキライチコンに関してはそれくらいの記憶しかなく、いやそもそもアキライチコンはとても寡黙な人で、たぶん彼と僕との会話の全てをギュっと圧縮すると、30分カセットテープ片面に余裕で入るのではないかと思う。 彼の家で彼が僕にピンクフロイドのDVDをみせると僕が眠り、僕がプロレスの番組をつけると彼が眠っている、そんなかんじであった。 まぁ北海道出身の人は寒いからあんまり口を開かない性分なんだろうなんて思っていた。そして彼と出会ってから、北海道の人は無駄口は叩かないという偏見さえ持つようになってしまった。 さて、ここでもう一度、第三期のメンバー表をふりかえってみると、まだこの時点で(Vo)のパートがいないことに気づくことができる。やはりこのメンバー、4人が4人とも、演奏しながらは歌うどころか、一言も発するの一杯一杯な状況であった。 やばい、このままではベンチャーズ(※3)のような歌のないペケペケいってるだけのバンド、いわゆるインストゥルメンタルバンドになってしまうと危惧したのか、シンスケイチコンが当時バイトをしていたバイト先のブックオフで歌のうまいという人をみつけたので我々に紹介するという。もしやかつて「赤とんぼの唄」で一世を風靡した「あのねのね」(※4)ではないか、そうであればクニアキイチコンだなとかと勝手に胸をふくらませたりもしたのだが、そんなことあるはずもなく、そのバイト先の歌の上手い人というのは我々の二つ下くらいのボニーピンクの好きな女性だという。 やれセックスピストルズだ、やれラモーンズだ、やれミッシェルだと男臭いロックしか頭になかった我々に「ボニーピンク」といわれたところで、今でこそボニーピンクも知られているが当時はちょっと名前聞いたことあるくらいだなぁというかんじであり、いまいちそれをコピー練習することに男達はためらったのか、「ちゅうか女性ボーカルっていえばジュディマリちゃうん?」みたいな、つまり「ニッポンジンならオチャヅケやろうが」的なノリで、ボニーピンクの話は完全に無視してその女性ヴォーカルを迎えて第一コンバットはスタジオ練習でジュディマリをやることとなった(もちろんこの時にこの女性ヴォーカルに第一コンバットなんて奇異なバンド名は伏せたままで)。 初顔合わせ当日、男4人の密室であるスタジオに、お年頃の女性1人で訪問するのは危険であると判断したのかしなかったのか、ボニーピンク好きな女性はお友達を2人連れて登場した。 ジュディマリの曲を2曲、ブルーティアーズと何かをコピーしたのだが、もちろんそのボニーピンク好きな女性は、ボニーピンク好きなだけあって、歌も大変上手く、また第一コンバットも初めて人の目に触れるということもあり(たった3人ではあるが)事前練習を頑張っていたせいか、それなりに演奏できた。 しかし、どうにも空気がまざらなかった。 これはボニーピンク好きな女性になんら不備があったわけではない。 当時の第一コンバットメンバーは、今の第一コンバットよりも、かなり殻に包まれた人格を有していた。 そのため、当日のスタジオでは、第一コンバットのシンスケイチコン以外のメンバーがどうにも高倉健の「自分不器用ですから」的部分のみを醸し出し、なんというのか「不器用な高倉健3人衆」ができあがってしまい、もちろん今回の縁談の仲人役シンスケイチコンもそんな3人衆をまとめ上げるまでの器量を有しておらず、結局そのスタジオでは、「ボニーピンク好きな女性が“不器用な高倉健3人衆によって無骨に奏でられるジュディアンドマリーのブルティアーズ”を歌っている」のを付き添いにきている二人の女性がポカンとみているという図式ができあがってしまった。 この縁談が破談になってしまったことはいうまでもない。 <つづく> ※1 ディープパープル風 1968年に結成されたイギリスのハードロックバンド。代表曲スモークオンザウォーターは、初めてギターを握ったロックキッズならまず試してみるフレーズの代表である。そんなディープパープルは1976年に一度解散したが、1984年に再結成し、今に至るのだが、メンバーが都度かわっており、かわるごとにその時期は第●期と呼ばれ、スティーブモーズやイアンギランが在籍する現在のバンドは第八期というように呼ばれている。 ※2 ミッシェルガンエレファント 91年に結成され03年に解散した日本のロックバンド。ちょうどこの当時はフジロック出演や「ぷらちなロンドンブーツ」での主題歌使用などにより人気の高まっていた頃で、当時の第一コンバットは「バードメン」や「ゲットアップルーシー」などをコピーして楽しんでいた。 ※3 ベンチャーズ 1959年に結成されたアメリカのサーフロックバンドで、曲に歌はないいわゆるイントゥルメンタルバンドである。ここ日本においては、ビートルズと並ぶロックの祖とされるほどの偉大なバンドなはずである。タクヤイチコン、エイスケイチコン、シンスケイチコンらは淀競馬場の夏祭りの出店のアルバイトをしていたときに、地元のガキんちょ達がいっぱいくるようなちんけなお祭りだったのだが何故かそこでロックの祖、ベンチャーズがライブをしていた。しかしそんな偉大なる光景も関西のガキんちょに通じるわけはなく、金魚すくいや輪なげを担当していたタクヤイチコンはガキんちょ達にかんちょーされまくっていた。 ※4 あのねのね 清水国明と原田伸郎によるフォークデュオ。結成当時はメンバー4人で残る二人は笑福亭鶴瓶とその妻だった。清水国明の姉はパートさんからブックオフの社長になったことで有名。 ▲
by yokajihideki
| 2007-01-18 03:25
| 実録 第一コンバット十年史
1998年夏、暇をもてあました3人が、はじめてスタジオというところに入ることとなった。 おそらく大阪府豊中市蛍池の「スタジオシオン(写真参照)」というスタジオに入ったのだと思う。 この“おそらく”というのは、そもそも第一コンバットの練習スタジオを予約するというのは、長年、エイスケイチコンの担当のジョブであり、これは現在でも引き継がれている慣習(ならわし)でもある。なので正直どこのスタジオだったのかをなかなか思い出せなかったのだが、蛍池にあるスタジオをググってみると、ここだったような気がする。 そんなスタジオでの記念すべき初練習曲はグリーンデイのバスケットケースであった。グリーンデイは3人編成だったので人数的にちょうどよかった。しかし我々3人は楽器を弾くことでいっぱいいっぱいで、不器用であったので、誰も歌を歌えず曲だけの演奏となった。つまりちょうどよくなかったのだが、とりあえず各メンバーが練習してきたものをあわせてみると、バスケットケースっぽい曲が演じられたので、みんなちょっとバンドマン的気分を味わうことができた初めての瞬間となった。 バンド音楽というものをやっていておもしろいと思う瞬間には「段階」があると思う。 例えば、 1段階目 (1人で)楽器で音をだしてみる 2段階目 (1人で)1曲コピーする 3段階目 バンドで音をだしてみる 4段階目 バンドで1曲コピーする 5段階目 オリジナルで曲をつくってみる 6段階目 オリジナルで曲を演奏してみる 7段階目 ライブで演奏する 8段階目 ライブでお客さんが盛り上がる 9段階目 ・・・・・・・・ というかんじできっと段階があるはずだ。 上記の段階はあくまで一般的なバンドにおける例なのだが、第一コンバットは一般的ではないバンドであり、一人遊びもしくは二人遊びが上手なバンドだったので、2段階目のあとにあるはずの3段階目、4段階目をとばして、5段階目に先に入り、3段階目、4段階目に戻ってくるという形になってしまった。いわば「トレントレズナー/NIN型(※1)」もしくは「デイヴグロール/フーファイ型(※2)」に近い、変則的なタイプだったのかもしれない。 そして、そんな“こもり系”だったタクヤイチコンとエイスケイチコンのデュオも、3人目の加入によって、ようやくバンドという形体をとりスタジオで練習できるようになったのである(まだ歌はつけられない演奏だけのバンドであったが)。 そしてまんまと暇つぶしにスタジオに入ってしまったキムラくんは、ここに晴れて3人目のイチコンファミリーとして、“シンスケイチコン(初代dr.)”を襲名した。 <つづく> ※1 トレントレズナー/NIN型 90年代前半インダストリアルロックをメジャーに引き上げた、アメリカオハイオ州出身のナインインチネイルズ(通称NIN)は基本的にはバンドというよりかは、トレントレズナーによるプロジェクトであるといってもよい。各アルバムの音源はトレントレズナーとそのスタッフ達によってつくられるいわばバンド音源というよりは、つくりこまれた宅録的なものであり、そのできあがったアルバムをライブツアーするときはそのライブツアー用にメンバーが都度オーディションで選ばれてれてライヴをまわるといった形をとっている。宅録なのにハードで危険なイメージが上手くつくられたのはそのせいであるかもしれない。ちなみに「NIN」というロゴが一時期ロックファンに流行ったが、日本ではヌンチャクというバンドが「NUN」とロゴでパロっていた。 ※2 デイヴグロール/フーファイ型 元ニルヴァーナのデイヴグロールも、フーファイターズのファーストアルバムを作った際には全パートを自分で担当し録音してしまった。 ▲
by yokajihideki
| 2007-01-17 03:23
| 実録 第一コンバット十年史
無事ファーストアルバム「一魂」も完成した1998年頃の第一コンバットであったが、実はバンドとしての問題は何も解決していなかった。 当時のメンバーはタクヤイチコンとエイスケイチコンの二人であったので、バンドというよりもむしろデュオであったのだ。 つまりメンバー二人だとすると、目指すべき道の選択肢は、ガイジンでいえば「サイモン&ガーファンクル」、日本人だと「キロロ」、「パフィー」、「ピンクレディー(※1)」、いやそれは女なので、男にしてみて「ゆず」、頑張って数字にしたところで「19」、夫婦(めおと)になって「ル・クプル」、もっと芸の幅を広げたところで、「染之助・染太郎」が限界である。 セックスピストルズとかラモーンズとかガンズアンドローゼズとかそういう憧れであった悪そうなバンドには、どうあがいてもなれないのである。 いや、バンドの人数4人とか5人とかこの際そんな贅沢なことを言うのはやめよう。 せめて3人いれば、バントという領域に入れる。当時は時流がパンクだったこともあり、3人バンドもなかなか格好のいいイメージがある時代であった。例えば、グリーンデイ、ハイスタンダード、ギターウルフ(※2)。 この構成でいった場合、タクヤイチコンかエイスケイチコンが演奏をしながら歌うことさえできれば(いや実際は演奏さえもままならず、歌いだすと演奏の指が止まるのだが)、あとはドラムさえいればバンドとして成立するのである。 当時はインターネットもまだあまり普及していない時代であったのでメンバー募集が簡単にできる時代ではなかった。かといって、「バンドやろうぜ!」とかに載せて誰かがきたところで、こっちもまともに演奏できるレベルではなかったし、「バンドやろうぜ!」をみてやってくる人と「バンドをやってやるぜ!」なんてテンションまではなかった。 つまり第一コンバットがバンドになるには、誰かまわりの身内をドラムに仕立て上げるしかなかった。ということで第一コンバットの「ドラム狩り」というプロジェクトがはじまった。 最初に候補の槍玉に上がった人物がクメノくんという人物であった。クメノくんはタクヤイチコン、エイスケイチコンの大学での同級生で、松山出身のいわゆる好青年であった。背もなかなか高くスラっとしており、トークも笑顔も爽やかであった。「うちのバンドにも爽やかなやつをいれれれば人気が出るだろう」という目論見があったのだ。今になって考えてみると、彼はなんとなく若かりし頃の大泉洋に少し似ていると思う。 で、そんな彼をおびきいれようとエイスケイチコンは彼にドラムスティックをプレゼントしていたりしていた。いわゆるそれが第一コンバットからのラブコールだ。世界の王監督が、将来有望な高校生野球選手に「君のプレーをみてみたいな」と肩をポンと叩いて、サインボールを手渡すのと同じことだ。 しかし、待てども待てどもクメノくんはドラムを叩こうともしない。 それもそのはずであった。クメノくんは、バスケット・テニス・華やかなゼミ生活へと邁進しているところであった。爽やかな大学生活というものをまさにエンジョイしているところであり、なにを今更、イチコンなんてミドルネームを付ける必要性があろうかという状況であった。 1998年の夏頃、私は、クメノくん(2階)と同じアパートに住むキムラくん(1階)の家にいた(※3)。24時間テレビをみては、「あぁ暇だぁ~」とうめき、外から聞こえる花火大会の音をききながら「あぁ行く相手もいねぇ~、つまんねぇ~」とうめきながらキムラくんとひたすら“ぷよぷよ”をやって50回以上負けつづけていたのである。 いわゆる、暇の極地である。 世界の中心で暇を叫んでいたのである。稲中(※4)ならぬ暇中状態だったのだ。 そんな暇な状態のところで、ふとキムラくんちのスミに目をやると何故かドラムスティックが転がっている。 「あれ、どうしたの?」と私がきくと、「クメノのやつをもらった」という。 ドラムスティックをうっとうしく思ったクメノくんが直接シンスケくんに渡したのか、それともエイスケイチコンの画策で、クメノくんをあきらめ、第二候補のキムラくんに標準を合わせて渡るようにしむけたのかは、定かではないが、とにかく「ババ抜き」でいうところの「ババ」が今キムラくんのところに回ってきているのだけは確かなようである。 人間何かをやろうと思い立つときは、物凄く忙しくてバイタリティに溢れているときか、物凄く退屈で暇で死にそうなときだと思う。 こうして第一コンバット2人とキムラくんは夏休みのある日、生まれて初めてスタジオというところに入ってみることとなった。 <つづく> ※1 ピンクレディー 1970年代後半、日本で最も人気のあった歌手、アイドルユニット。多くの楽曲を阿久悠(作詞)・都倉俊一(作曲)が手がけている。ちょうど同時期に生まれた第一コンバットの年長組世代(通称“トニコン”、尚ノリコイツコン、ショウタイチコンの若年組世代を“カミコン”と呼ぶ)にも与えている音楽的影響は少なくはない。 タクヤイチコンは尊敬する作詞家として阿久悠を挙げており、数々の彼の曲からその手法を勉強している。なお、第一コンバットの「セットアッパー」は、ピンクレディーの「サウスポー」を現代野球バージョンにしたリスペクト曲だといわれている。 ※2 ギターウルフ 1992年にデビューした日本のスリーピースロックンロールバンド。耳鳴りの起こる轟音とアンプの上でリーゼントを整えるなどのロケンローなパフォーマンスがファンを魅了する。ギターウルフがリスペクトするバンドがラモーンズということもあってか当然エイスケイチコンもギターウルフのパフォーマンスに魅了されていた。セイジは「ギターウルフ」、ビリーは「ベースウルフ」、トオルは「ドラムウルフ」といったウルフ姓のファミリーネームでの呼び名もある。2005年3月、ビリー氏急死後、ベースに触れたことがないという筋金入りの不良 ユージ氏が加入している。またレコーディングでギターを弾いているのはセイジ氏ではなく彼よりもギターが上手いといわれていた実弟である「弟ウルフ」だった説なんてのも流れている。 ちなみにタクヤイチコンは、合コンで、「私、ギターウルフはかなりみにいってたんだけど、よく一緒にみにいってた友達の女のこが、ギターウルフのライブ中、ダイブしてるときに首から落ちて死んじゃったのよね」とケタケタと笑いながら話す女と出あったことがある。ギターウルフ恐るべしと思った瞬間であった。 ※3 クメノくんとおなじアパートに住むキムラくん この二人が住んでいたアパート、ローレルⅢについては、「実録 第一コンバット十年史」第1話参照。第一コンバットの歴史を語る上でかかせない場所となっている。 ※4 稲中 古谷実の漫画『行け! 稲中卓球部』の略。得てしてダメなロッカーが読みがちな作品である。他にダメロッカー指定図書として「まことちゃん」や「デトロイトメタルシティ」等がある。 ▲
by yokajihideki
| 2007-01-16 03:22
| 実録 第一コンバット十年史
前回の続きとして、1997年9月~1998年1月頃につくられたファーストアルバム「一魂(いちこん)」についての解説である。 再度「一魂」に収録されたは17曲のリストをみてみると 1 キョウソセイタン 2 カタクチイワシ 3 バタフライ 4 ビバリーヒルズ高校白書のテーマ 5 死姦マニア 6 Ba2+(バリウムイオン) 7 21centuryスキゾイドマンincludingヒゲダンス 8 ダッピ 9 サブリミナル効果の実験 10 愛のしるし 11 ジングル1ere 12 I must live without you 13 ジンギスカソ 14 The Theme of Godfather 15 Basket Case 16 よぉ!カジヒデキ 17 キョウソアンソク 前回はこの中でカバー曲について解説したが、今回はオリジナル曲について軽くみていきたい。 1及び17のキョウソセイタン及びキョウソアンソクというのは曲でもなんでもなくて、「宇宙のパワー」という謎の電話番号(※1)があって、そこに電話をかけて録音した音である。 ちなみにこの番号に電話すると。「いまから宇宙のパワーをおくります。あまり考えずにそのままの状態でききなさい。あぁ~~」とおっさんが延々と唸りつづけるのである。 で、最後におっさんがご丁寧に「おわります」といって電話が切れるのだが、その「おわります」を録音したのが17曲目のキョウソアンソクであり、最初のおっさんの唸りの開始部分を録音したのがキョウソセイタンである。 ちなみに今も検索サイトで「宇宙のパワー」「番号」と入れると電話番号が出てくるので、もしかしたらまだかかるのかもしれない。 なぜ、ファーストアルバムの最初と最後に、こんなおっさんの声を入れたかというと、これもやはりオフスプリングのセカンドアルバム“スマッシュ”から受けた影響が大きかったわけで、“スマッシュ”もおっさんが「アーイ、スタンドリラックス、ドューユーノーザットミーン?」とか喋りかけてくるトークで出だしが始まるからで、それを「宇宙のパワー」のおっさんで真似てみたわけである。 こういったアルバムの1曲目をあえてガツンとしたロックではなく、喋りなどの飛び道具を入れる手法(※2)というのは、オフスプリングのみならず、かつてはエアロスミスやガンズアンドローゼズ、最近ではフーバスタンクやクイーンズオブザストーンエイジなどのアルバムでも使われており、ロックアルバムづくりおける比較的高度なテクニックといえる。 さて、話戻って・・・ 2のカタクチイワシは、昔給食にでてきた「カタクチイワシ」の一生を唄った曲である。第一コンバット初のオリジナル曲といえる。 3のバタフライは、当時の社会問題として中学生らのバタフライナイフの所持が問題視されていた(※3)のだが、そこからタイトルが由来している。テーマは当時話題となった「キレる若者」である。この曲で、後に第一コンバット初のプロモーションビデオも制作されることとなる。 5の死姦マニアという曲では北の国からドラマ時代の田中邦衛の声がサンプリングされている。 8のダッピという曲ではテープを2倍遅く回転させて、悪魔のような声にして曲をうたっている。 そして16のよぉ!カジヒデキは現在も第一コンバットのライヴで耳にすることができるよぉ!カジヒデキの原曲で、当時はただのヒップホップな曲であった。この「よぉ!カジヒデキ」が第一コンバットの10年間の存在を継続させた曲と後々なるのだが、その話については話が長くなるのでおぃおぃしるしたい。 ということで、この文面だけをみると大変パンクなアルバムにみえるのだが、これは人が聴けるレベルのものとは余りにもかけ離れており、それはいわば4歳時がはじめて画用紙にクレヨンで絵を描くときと同じくらいの芸術性があったわけで、まぁなんせすごかった。 そして第一コンバットは楽器もろくすっぽ弾けないまま見事アルバムを1枚完成させたのである。 <つづく> ※1 「宇宙のパワー」という謎の電話番号 Yahoo!で「宇宙のパワー」「電話番号」で検索したところ“宇宙パワー 0338365388&0663090177”という番号が記されていた。現在この番号がかかるかどうかの確認は行わなかったが、興味のある方は是非お試しいただきたい。また、mixiでは「宇宙のパワー」コミュニティもみつかった。↓ http://mixi.jp/view_community.pl?id=146440 ちなみに謎の電話番号としてはリカちゃんだけでなく、リカちゃんのママとも会話できるリカちゃん電話番号などが有名だった。 ※2 アルバムの1曲目をあえてガツンとしたロックではなく エアロスミスの「ゲットアグリップ」は1曲目、スティーブンタイラーのヒップホップMCからスタートする。ガンズアンドローゼズの「ユーズユアイリュージョンⅡ」は1曲目、変なお兄ちゃんの声でスタートする。フーバスタンクの今年発売された新譜「欲望」では1曲目、軍隊的な行進とその掛け声からスタートする。デイブグロールのドラム参加もあったクイーンズオブザストーンエイジの「ソングスフォーザデフ」ではラジオから流れてくる声からスタートする。 これらのように、ロックではない特徴ある声や音をあえて使うことで、そのアルバムに対する期待を高める効果をもたらすことができる。 ※3 社会問題として中学生らのバタフライナイフの所持が問題視されていた 1998年1月、栃木県黒磯市の中学校で26歳の英語教師が13歳の男子生徒に7箇所をバタフライナイフで刺され死亡する事件が起こった。この事件などを機に「キレる若者」という言葉がメディアで頻繁に取り上げられるようになった。 ▲
by yokajihideki
| 2007-01-15 03:18
| 実録 第一コンバット十年史
あまり知られていないことであるが(というかほんの最近までメンバーであるヒコもショウタイチコンも知らなかったことなのだが)、実は第一コンバットは既にアルバムを2枚製作したことになっている。 1枚目のアルバムは1997年9月~1998年1月頃につくられた「一魂(いちこん)」、そして2枚目のアルバムは1999年9月~2000年1月頃まで主につくられ、その後も何度か未完の曲が加わった「ニ根(にこん)」である。 ここでは「一魂」について振り返ってみる。 なんせこの「一魂」はすさまじい音源である。楽器もろくにひけない、スタジオ でコピー練習もしたことがない、ドラムもなければリズムマシンもない、MTR(※1)のような録音機材もない状況でつくられた音源である。あるのは魂だけであった。 パソコンもない時代、MDは普及しつつあったがMDラジカセを買うお金がなか った時代。第一コンバットの最初の録音機材はMD機能もついていないラジカセ(※2)のみ。 「一魂」は全17曲入り。曲のリストは以下のとおり 1 キョウソセイタン 2 カタクチイワシ 3 バタフライ 4 ビバリーヒルズ高校白書のテーマ 5 死姦マニア 6 Ba2+(バリウムイオン) 7 21centuryスキゾイドマンincludingヒゲダンス 8 ダッピ 9 サブリミナル効果の実験 10 愛のしるし 11 ジングル1ere 12 I must live without you 13 ジンギスカソ 14 The Theme of Godfather 15 Basket Case 16 よぉ!カジヒデキ 17 キョウソアンソク この中でカバー曲が「Basket Case」「ビバリーヒルズ高校白書のテーマ」「21 centuryスキゾイドマンincludingヒゲダンス」「The Theme of Godfather」「愛のしるし」である。 「Basket Case」はご存知グリーンデイ(※3)の名曲である。タクヤイチコンは タブ譜をみてこのベースを弾いているのだが、「半音下げ」のところに気づかずにそのままタブ譜に書かれた数字のフレットを弾いているので、できあがった音源は、エイスケイチコンのギターとタクヤイチコンのベースが半音ずれたものが合わさっており、大変不快である。 「ビバリーヒルズ高校白書(※4)のテーマ」は海外青春ドラマのオープニング曲をエイスケイチコンがギターでカバーしたものである。曲の最初に、「ビバリーヒルズ高校白書」の第一話のドラマの開始時の音声(ブランドンウォルシュの声)をサンプリングしており、そのあとエイスケイチコンのギターがはじまる。 「21centuryスキゾイドマンincludingヒゲダンス」はキングクリムゾン(※5)の名曲をエイスケイチコンがギターで弾いているのだが、途中で転調して愉快なヒゲダンスがはじまるという曲である。ベースは3音だけ重ねられている。 「The Theme of Godfather」は映画ゴッドファーザーのテーマ曲で、よく暴走族とかが夜中鳴らしていたあの曲であるが、ガンズアンドローゼズ(※6)のギタリスト・スラッシュがユーズユアイリュージョンツアーの時の自分のソロタイムでそのフレーズを弾いており、それをそのままパクっている。 「愛のしるし」はPUFFYの名曲のカバーで、エイスケイチコンのギターに合わせて、タクヤイチコンがアミちゃん役、エイスケイチコンがユミちゃん役を演じている。カバーといっても替え歌である。第一コンバットの歴代の曲の中で、タクヤイチコンとエイスケイチコンがコーラスではなく、二人そろって仲良く歌っている曲はこの曲のみである。 「一魂」のオリジナル曲については次回また記すとして、今回は最後にこの「愛 のしるし」の替え歌の歌詞をご紹介して終わりとしよう。是非みなさんもカラオケでうたっていただきたい。 『愛のしるし』 ※メロディはPUFFYと同じ 山田花子しびれる 心地よい針のすなお まげもないのに白塗り それだけが殿のしるし イーノーキーアーントニオー 素手で打ち負かそう 加藤鷹の宝物 誰でもやりそな邦子 さーだまーさーし 山田花子しびれる 心地よい針のすなお まげもないのに白塗り それだけが殿のしるし それだけが愛のしるし <つづく> ※1 MTR マルチトラックレコーダーの略。テープ媒体やディスク媒体を用い、2トラック以上の複数の録音トラックの録音再生を行う事ができる録音機器。通常のステレオ録音再生機と異なり、それぞれのトラックに対し、個別に録音、再生を選択することができる利点がある。 この利点を活かし、ここ最近の第一コンバットの録音方法は、スタジオでドラム・リズムギター・ベースは一発どりをして臨場感を出し、かぶせるソロギターパートや、録りなおしがひたすら多いヴォーカルだけは、後日別録りとなる。 ※2 ラジカセ ラジオカセットレコーダーの略。テープレコーダーにラジオチューナーを内蔵した音響機器。 当時タクヤイチコンがコミュニティFM局で番組制作をするサークルにいたため 、ラジカセなどのマニアな使い方を開発していたこともあり、録音にも上手くラジカセが活用された。ラジカセでギター・ベース・ボーカルを重ねて録音していく場合、 (1)まずはギター音をカセットテープAにとる (2)ギター音の入ったテープAをテープBにダビングしながら、かつその音を聴きながら、その上に、外部入力端子にそのままベースを繋いでベース音をかぶせる⇒テープBにはテープA+ベース音が入ったものができる (3)テープBをテープCにダビングしながら、かつその音を聴きながら、その上にヴォーカル音をかぶせる⇒テープCにはギター音・ベース音・ヴォーカル音がかぶさったものと複数回のダビングによるノイズが入っている ※3 グリーンデイ 1994年アルバム「ドゥーキー」でメジャーデビューしたカリオフォルニア州バー クレー出身のバンド。当時はオフスプリングとともにメロコアパンクブームの立役 者であった。一時期、ヴォーカルのビリージョーが太ったりと不振にあえぐこともあったが、2005年「アメリカンイディオット」でグラミー賞も受賞し、アメリカを代表するバンドとなった。 なお、後年、第一コンバットが初めてスタジオでコピー練習した曲も、このグリーンデイの「Basket Case」であった。 ※4 ビバリーヒルズ高校白書 原題は「Beverly Hills90210」。日本ではNHKで放送されていた海外青春テレビドラマ。第一話はブランドンとブレンダの双子の兄妹のウォルシュ家が、ビバリーヒルズに引っ越してきたところからはじまる。 ※5 キングクリムゾン 1969年に「クリムゾン・キングの宮殿」でデビューしたイギリス出身のプログレ ッシブロックバンド(通称プログレと呼ばれる)。そもそもこのプログレとは、ロ ックというジャンルにとらわれることなく、クラシックやジャズをはじめとした他ジャンルの影響を反映した前衛的または先進的・実験的な音楽である。 第一コンバットメンバーとプログレの関係といえば、エイスケイチコンの「キングクリムゾン」、アキライチコンの「ピンクフロイド」、ノリコイツコンの「イエス」「キャメル」「ドリームシアターをはじめとしたプログレッシブメタル」といった嗜好をみると、影響を与えている点は少なくはない。 ※6 ガンズアンドローゼズ アクセルローズ、スラッシュ、ダフマッケイガンらをメンバーとして、1987年「Appetite for Destruction」でデビューしたLAのバンド。1991年「Use Your Illusion I&II」発表後、オリジナルアルバムの発表はなく、2004年にスラッシュ、ダフマッケイガンらはストーンテンプルパイロッツのスコットウェイランドとヴェルヴェットリボルヴァーを結成、現在活動中。アクセルローズのみ残ったガンズアンドローゼズは、毎年ニューアルバム「Chinese Democracy」発売の噂が流れ、既に10年以上経つがいまだ発売されていない。 第一コンバットではタクヤイチコンが特に影響を受けており、第一コンバットのスタジオ練習ではガンズアンドローゼズの「Welcome to the Jungle」「Sweet Child O' Mine」、ストーンテンプルパイロッツの「Plush」をカバーしている。 ▲
by yokajihideki
| 2007-01-14 03:17
| 実録 第一コンバット十年史
バンド名も決まった第一コンバットであったが、そのあと3ヶ月は何も進展はなかった。なんせ、第一コンバットにはギター1本しかなかったのだから、何もしようがない。 確か1997年5月だったと思う。 引越したばかりの僕は部屋にベッドを買わなければならなかったのだが、ちょうどバイト代もその日に入るので、授業が終わったらどこにベッドを買いにいこうかと頭を悩ませていた講義中。別の友達とそんな話をしていたら、横にいたエイスケ氏改めエイスケイチコンは、その話をききつけたのか、ベッドもいいけど、ベース買ったら楽しいと思うよと言い出す。まるで「おせちもいいけどカレーもね」的なかんじで。 残念ながら、ベッドを買うとベースなんて買うお金はない。 なのでベッドを買うと僕はいうと、エイスケはベースは楽しいぞーと言い出す。 「いや、でもおれ中学生の時にギターひけなかったから、いきなりベース買って弾けないともったないないよなぁ」とかいってのらりくらりと逃れようとすると、 「ベースはバカでも弾けるから大丈夫だって、ほらあのグレンマトロックだって弾けてたんだから」とダメ押しをしてくる。(皮肉な話であるが、タクヤイチコン氏はこのバカでも弾けるベースが弾けずに7年後にボーカルに転向さされている) 「とりあえずみにいこう」と言い出し、どこぞの資格学校の勧誘のおねえちゃんのごとき手腕をみせたエイスケイチコンは、授業後まんまと連れ出してしまった。 その日は水曜日だったので、梅田のほとんどの楽器やが閉まっていた。ところが何故か阪急の高層ビルの32階とかいう、「なんでこんな場所に楽器やが」みたいなところの楽器やだけ営業していた。 ふつう、楽器やさんというとロンゲのあんまり社会になじめません的なにいちゃんとかが店員さんだったりすると思うのだが、これまたこういう時に限って何故か愛想のいいおねえさん店員だった。 気づいたら、家にはベッドのかわりにIbanezのベース(※1)が横たわることとなった。第一コンバットにギターとベースが揃った日である。 めでたい。 ところが、ベースが加わったのはいいが、弾けるわけではない。というか楽譜も読めない人間が買っても所詮弾きようがないのである。結局僕はベースで音を出すことはできたが、飽きるのに1ヶ月とかからなかった。最初にスキッドロウ(※2)のモンキービジネスという曲をタブ譜(※3)をみてベースでコピー練習したが、どうにもベースだけでやっても地味で仕方がないので、すぐにベースの練習をやめてしまった。ベースはベッドがないお部屋の飾りとなった。 そしてまた何もないまま1ヶ月が過ぎた。 1997年7月、僕は日本で初のロックフェスティバルとなるフジロック(※4)に行った。台風による急病人炸裂により、地獄絵図なロックフェスティバルとなったが、この地獄絵図な話題がむしろバズを生み出し、現在の日本のロックフェスブームにつづくのは周知のとおり。 この時、僕はレッチリのフリー(※5)のベースプレイを初めてみたのだが、これは驚きだった。大抵のバンドのベーシストというのはなんだかとっても地味で、ロッカーのくせに「僕、文化人です」みたいな顔をしてる人が多いのだが、彼はふるちんになってアヒルさん踊りみたいな明らかに勝手なことをしており、まさにロッカーだった。ここで、単純な僕は、「おぉ、ベースすげぇ」と思ったわけである。 フジロックから帰って、すぐにエイスケイチコンのところへ向かった。 「おれたち、曲をつくろう!」 こうして、まだコピー練習さえもしたことがないバンド 第一コンバットは、いきなり作曲活動に挑むこととなった。 <つづく> ※1 Ibanezのベース Ibanezは明治41年に星野書店の楽器部として創業された星野楽器のギターやベースにつけられるブランド名。エレキギターの本国アメリカで唯一成功している日本のメーカーともいえ、「ニッポン人ならIbanezだろ」と言いたいところだが、スティーブ・ヴァイやポールギルバートなどテクニカルなプレイヤーに好まれるブランドであるため、日本でもIbanezを有していることは「テクニカル変態好きです」とアピールしていることに等しい。当時、IbanezはKORNやLIMP BIZKITのベーシストに使われおり、ミクスチャーのシンボル的ベースブランドでもあった。 ※2 スキッドロウ ジョンボンジョビと幼馴染だったデイヴ“ザ・スネイク”セイボを中心に結成されたバンド。ボンジョビの子分的イメージを嫌ってか、91年にはパンキッシュなHR/HM路線のセカンドアルバム「スレイヴトゥザグラインド」を発表。モンキービジネスもその中におさめられている。 非常にメタルちっくな曲であり、ベースだけで練習してもどうにも楽しめない、とても悲しい曲である。 ※3 タブ譜 バンドコピー練習をするとき用にバンドスコアなるものが書店で販売されている。このバンドスコア(通称バンスコ)の中に、この弦をおさえたらそのままコピーできますよという、みたまんまのわかりやすい表記になっている譜面があり、それがタブ譜である。これだと楽譜が読めない音楽初心者がコピーすることも、ベースで簡単な曲であればなんとかなる。但し、音感で覚えられないので、タブ譜にかいてある数字(つまりそれがおさえる弦のフレット数になるのだが)をそのままおぼえるというようなことをした場合、まるでバーコードを覚えるかのようなとてつもない数列を呪文のように覚える羽目となる。そしてその行為を続けると、結局「バンドでジャムる」みたいなかっこいいバンドマン的要素には永久にたどりつけることはなく、落ちこぼれとなる。 ※4 フジロック 1997年からはじまったフジロックフェスティバルのこと。この年は天神山で行われたが、1999年以降、苗場で毎年開催されており、今年で10周年を迎えた。 第一コンバットでは、エイスケイチコンが9回、タクヤイチコンが6回、ヒコが1回観覧している。 フジロックでは、ここ数年、インディーズアーティストに向けた「ルーキーアゴーゴー!」なる企画を実施しており、毎年オーディションを行っている。ここからは、サンボマスターやアジアンカンフージェネレーションなどもデビューしており、第一コンバットも出場を狙って2005年、2006年と書類と音源からなる応募書類を送ったが、2回とも落選の葉書が届いている。来年度の出演に期待したいところだ。 ※5 レッチリのフリー レッチリとはレッドホットチリペッパーズのこと。最近ではレッチリのことをホッチリという人もいるらしい。 メタル色の強かった当時の日本にオルタナティヴを一気に普及させるきっかけとなったのはフジロックにおけるレッチリ演奏中のボーカル・アンソニーが骨折した腕をつったまま、嵐に向かって叫ぶ写真がロック雑誌で取り上げられたことによるのではなかろうか。その後、1999年発表のカリフォルニケーションで「レッチリ」は一気に日本の洋楽好きの共通言語となり、ミュージックステーションでタモリと共演するほどお茶の間の人となった。 第一コンバットにしては珍しく、メンバー全員が聴いているアーティストでもあり、アザーサイドやカリフォルニケーションがコピー練習で用いられていた。 ▲
by yokajihideki
| 2007-01-12 03:15
| 実録 第一コンバット十年史
確か1996年の11月2日だったと思う。 セックスピストルズの再結成ライブは18時からはじまるのに、僕もエイスケ氏もはじめてライブをみいくということからか気合が入りすぎて15時過ぎには会場であるIMPホール(※1)についてしまった。 仕方がないのでとりあえず下見にいくかということで会場の入り口まで無駄に足を運んでみる。「へぇ~ライヴ会場ってきれいなとこなんだね~」とかおのぼりさん全開の発言をのんきにしていると、左手のほうからやけにデカいガイジンさんが入り口に向かって歩いてきた。 もっ、もしや。 僕とエイスケ氏の顔がこわばったの言うまでもない。 そのガイジンさんはご丁寧に入り口の真正面、つまり我々の目の前、すぐそばで立ち止まり、僕ら二人を見つめた。握手でもしたいのかいといわんばかりの顔で。 しかし僕もエイスケ氏も微動だにできなかった。初めてみにいくライブである緊張感に加え、おそらくこの人はセックスピストルズのメンバーの可能性が濃厚であるが、ジョニーロットン(※2)ではないので名前までおぼえていない。もし違ったらどうしようみたいな。 しばらくの無言の間があったあと、彼は会場の中へと入っていった。 「おっ、おい、いまのピストルズのメンバーちゃうん?」 「うっ、うん、たぶん、なんか写真にいたような気がする」 われわれは近くにある書店にダッシュした。書店のロッキンオンはもちろん再結成ピストルズについて触れていた。その写真に写っていたのはさっき立ち止まったガイジンだった。彼の名はスティーブジョーンズ(※3)。セックスピストルズのギターである。 ライヴ後、その日の興奮は夜中まで覚めやらなかった(※4) そしてこの遭遇事件は、エイスケ氏がギターを買うきっかけとしては十分すぎるものであった。1ヵ月後の12月に彼はギターを購入した。 エイスケ氏は今でこそ第一コンバットの中で、土日出勤も行う一番の勤労者であるが、当時、つまりギター購入後の彼は、学校にこない、サークルにもいかない、バイトもしないというギター仙人のような生活に徐々に突入していった。 年があけて1997年2月とかだったと思う。 珍しく経済学部の講義で顔を合わしたエイスケ氏とバンド名をどうするかという話になった。この頃、エイスケ氏からベースを買え買えと薦められていたが、「わかった、そのうち買うよ」とごまかしていた頃であった。つまり、当時楽器としてはギター1本しかないのにバンド名は決めてしまおうという不思議な話であった。 講義中、色々なバンド名っぽいワードがエイスケのノートにかきこまれていったが、いまいちピンとくるものがなかった。しばらくしてその作業にも飽き、居眠りをはじめたりしたのだが、大学の授業というものは長いもので、寝ておきてみてもまだ授業が続いている。 そこで、前日の夜中の1時過ぎにやっていた再放送アニメシリーズの「ヒーローは眠らない!」という枠の中で「黄金バット」(※5)のアニメを思い出した。そもそもそんな「ヒーローは眠らない!」とかいう番組をみているから講義中に眠ってしまうのだ。 「オーゴンバット」と片仮名で大学の長机の上にシャーペンでかいた。 隣にいたエイスケ氏が「なにそれっ、なにそれっ?第一コンバットってなに?」と何故か食いついてきた。 「えっ?黄金バットだよ。昨日夜中にやってた」 「あぁ。でもさ、第一コンバットってかっこよくない?」 「そうか?軍隊っぽくないか?」 「いや、かっこいいよ。バンド名にしようぜ。第一コンバットで」 「わかった。じゃあ通称イチコンな。流行りの略字バンド名(※6)も必要だし」 ギター1本の楽器しかなく、いまだもって練習もしたこともないメンバー2人によって『第一コンバット』というバンドが作られた瞬間であった。 <つづく> ※1 IMPホール 大阪市中央区にあるホール。ZEPPがなかった当時は、ベイサイドジェニーレベル以上のオルタナバンドやパンクバンドといった外国バンドに利用されることが多かった。 鶴橋駅から歩いていくと15分ほど時間がかかるのだが、その途中で「18金ピアス100円~18金ピアス100円~」というおばはんの声の安っぽいアナウンスが大音量で流れてくるのが妙に印象的であった。 また、IMPホールは大阪城ホールからも近く、ピストルズのライブ日の大阪城ホールはMr.Childrenのライブの日で、ダフ屋のおっさんが「ミスチル?ミスチル?セックス?」ときいてまわっていた。 ※2 ジョニーロットン セックスピストルズのボーカル。ジョン・ライドンとも名乗る。 再結成時は、パンクのカリスマとは到底思えない不思議な踊りを披露し、旧来のパンク命なヤカラ達を困惑させた。 再結成後、行方しれずとなっていたが、2004年イギリスのテレビの落ちぶれた芸能人がジャングルでサバイバルするというリアリティ番組に突如登場。尻を出したり、ダチョウにつつかれたりという醜態をさらすが、そのことにより一流コメディアンとして再認識されることとなる。シド・ヴィシャスやカート・コバーンのようにカリスマ期に死んで伝説となることよりも、むしろそのあと落ちぶれても生き抜くことのほうがよっぽど難しいのではないかと考えさせられずにいられない。 なお、当時エイスケイチコン氏はジョニーロットンの自伝も読破しており、パンク精神に溢れていた。 ※3 スティーブジョーンズ セックスピストルズのギタリスト。 この当時ガタイがやたらでかくみえたのは緊張による目の錯覚ではなく、そもそも彼がウェイトリフティングにはまったりしていたらしい。 セックスピストルズ以後はソロ活動を行ったり、元ガンズ&ローゼズのダフ・マッケイガンらとニューロティックアウトサイダーズというバンドを組んだり、元Xのhideのバンドzilchにも参加していた。 上記のジョニーロットンの自伝をエイスケ氏は読んで、スティーブジョーンズがフランスパンを指でほじって自慰行為を行うというくだりがやけに気に入ったのか、よくその話題を口にしていたのをおぼえている。 ※4 ライヴ後、その日の興奮は夜中まで覚めやらなかった 特にエイスケ氏のその日の興奮はハンパなかった。 翌日イベント会場で気球をあげるというバイトが入っていたので、僕もエイスケ氏もライブ後、友人のサイトウ君に車で鶴橋まで迎えにきてもらったのだが、その車中でサイトウ君が「なんかセックスピストルズって名前が変だよね」的な発言をしてしまい、それにプツリときてしまったエイスケ氏は車中でサイトウ君と口論をはじめてしまった。今でこそ温厚なイメージの強いエイスケ氏であるが、当時はパンク精神に溢れており、キレっぱやかった。 当時は気づかなかったが、この頃から僕とエイスケを取り巻く友人関係は“大学で関わってる人”から“ロック好きな人達”へと徐々にシフトしていった。 ※5 黄金バット 昭和初期の紙芝居のタイトルロールの主人公。黄金バットは長い歴史をもち、昭和後期には漫画・映画・テレビアニメ化され数々の作品ができた。 この「ヒーローは眠らない」で再放送されたテレビアニメは1967年から放送されたものではなかろうか? 主人公の正義のヒーローは金色のがい骨で黒いマントを着ており、ピンチになった子どもが「こうもりさんたすけて」というと、高笑いとともに現れるのだが、どうみても気持ち悪く、正義のヒーローにはまるでみえないところがポイントである。 (参考写真:http://image.blog.livedoor.jp/jacket_collection/imgs/2/3/230b7d43.jpg) また、 どこ、どこ、どーこからくーるのか、おーごんばーっと、おーごんばっと♪ こうもりだけーが知っている♪ という昭和歌謡的な主題歌も印象的であった。 ※6 流行りの略字バンド名 当時波にのっていた日本のバンドはMr.Children(ミスチル)、The Yellow Monkey(イエモン)、The Brilliant Green(ブリグリ)など略表記できることが必須であった。 この法則を使うと、第一コンバットも略されなければならないのだが、ミスチル、イエモン、ブリグリのように各単語の頭をとった略し方だと第一コンバットの場合「ダイコン」になってしまうので、それはイケてないだろということで、「イチコン」という略名を用いることとなった。 ▲
by yokajihideki
| 2007-01-11 03:14
| 実録 第一コンバット十年史
大江健三郎でも大貫憲章でもないオーケン(※1)の「リンダリンダラバーソウル」をいうエッセイを読んでふと思ったのだ。 このエッセイは筋肉少女帯をはじめとしたかつてのバンドや、それをとりまいたバンドーブームについてオオケンが数々の破天荒な思い出とともにふりかえったお話なのだが、第一コンバットももうすぐ結成から10年になるのだが、それだけ期間が経つだけあって第一コンバットを取り巻く話もそういえば色々あったなぁと。 しかしながら、第一コンバットの現在のメンバー自身にさえも果たしてこの10年間、第一コンバットがどのように存続しつづけてきたのかは知られていないと思う。いや、普通に考えるといまのメンバーでライヴ活動しているのも結構不思議なはずだ。なんで第一コンバットはいまさらになってライヴ活動を頻繁に行いだしたのか? いつも第一コンバットに加入する若手メンバーはどこから狩り出されてくるのか? この時期を機に、少なくとも僕のみてきた第一コンバットとそれを取り巻く人達のお話を書いておかなければならないような気がする。 どこから話せばいいのだろう。 そもそも第一コンバットの結成のきっかけとなった僕とエイスケイチコンとの出会いから思い出してみよう。思い出してみようとかいいながら鮮明には思い出せないのだが、あれは1996年の9月頃だったろうか?7月の合コンのメンバーにはエイスケ氏がいなかった記憶があるので、たぶん夏が終わってから喋りだしたのではなかろうか? 当時、大学1年生だった僕は大学の友人のクメノくんとキムラくん(のちの初代ドラマー・シンスケイチコン)が住む大阪の池田にあるローレルⅢという建物によく出向いていた。クメノくんが2階でキムラくんが1階で、僕は大学の出席番号順ではこのキムラくんとクメノくんの間であったので仲良くなり出向いてたわけなのだが、最初はクメノくんと仲良かったため、その日もクメノくんのところに出向いていた。 クメノくんちにいるハムスターでうしゃうしゃと僕が楽しんでいると、クメノくんが夜中なのに高い声できぃーきぃー騒ぐな、近所迷惑だと怒り出したので、じゃあということでその日は1階にいるキムラくんちに移民したのだ。そしたらそこにエイスケ氏がいた。 彼とはクラスが同じなので顔は知っていたが、噂ではテニスサークルにいるということだったので、当時の僕は“運動爽やかなそうなもの”はあまり融和できないと勝手に線をひいており、エイスケ氏はむこう側の人、いわば朝鮮半島でいえば北の人に区分していたので、そんなに会話をかわしていなかったのだが、なんせ移民した部屋に一緒になってしまったもので、しかも自分のほうが後からやってきた移民なのだから、友好的に喋ってみるしかない。 ここで記憶が曖昧になるのだが、確かそのときエイスケ氏はラモーンズ(※2)のCDか何かを持っていたのだと思う。それで「パンクを聴くのか?」という話になり、聴くというので、「セックスピストルズが今度再結成して来るけどみにいくか?」ということでみにいくこととなったのだ。 数日後、翌日がセックスピストルズのチケット発売日だということで、当時はネットもなかったので電話予約のため、前日からエイスケ氏に泊り込み翌日にそなえた。 なんせあの伝説のバンド、セックスピストルズがリユニオンして来日するわけである。 前夜はエイスケ宅の1枚しかCDの入らないケンウッドのラジカセでセックスピストルズ(※3)などをきいていたのだが、そこで彼に薦められたのがオフスプリング(※4)のスマッシュのアルバムであった。僕自身もパンクオーラマのアルバム(※5)でオフスプリングは聴いていたはずなのだが、このアルバムは名盤だと思い、エイスケ氏にカセットにダビングしてもらった。 そんなこんなしているとエイスケ宅のクーラーのすみからゴキブリくんが顔をのぞかせた。それでその退治でギャーギャー騒いでいると、隣の住民が夜中なのにうるさいと怒鳴り込んできた。だいたい僕の声は甲高いので、友人宅などにいくと近所からよく苦情がきやすいのである。でもってそれでも騒ぎながらゴキブリくんを3時間くらいかけて退治した。これがきっと僕/タクヤイチコンとエイスケイチコンの最初の共闘であったと思われる。 翌朝、ぴあにはなかなか電話は繋がらなかったが、「笑っていいとも!」が終わる頃には無事電話はつながり、偉大なるセックスピストルズのチケットを獲得した。 セックスピストルズは人気漫画「Nana」(※6)におけるナナとレンにおけるロックスピリッツの源流なだけでなく、第一コンバットにとっても源流だったのである。 ただ、「Nana」と第一コンバットの違いは、そのセックスピストルズのベーシストがシドヴィシャスではなくてグレン・マトロック(※7)であったことと、セックスピストルズの他に、ネアカバカのオフスプリングも源流としてあったということであろう。 <つづく> ※1 オーケン 筋肉少女帯のボーカルであった大槻ケンジ氏の通称。筋肉少女帯解散後は特撮なるバンドも組んでいる。 筋肉少女帯は「元祖高木ブー伝説」でブレイクしており、大槻ケンジ自身は楽器をまともにひけないのであるが、その点ではいまだ代表曲が「よぉ!カジ×デキ」で、ボーカルが楽器をまともにひけない第一コンバットと形態は似ている。 意外にも筋肉少女帯が現在の第一コンバットに潜在的に影響している部分は大きいようで、 ・タクヤイチコンは中学生の頃大槻ケンジのオールナイトニッポンに影響をうけていた ・エイスケイチコンはカラオケで筋肉少女帯の「日本印度化計画」を歌う ・ショウタイチコンは特撮のファンでもあり、今年年末に計画されている筋肉少女帯の再結成を待ち望んでいる といったことが現時点で判明している。 ※2 ラモーンズ 1974年NYで結成されたパンクバンド。ニューヨークパンクの代表でありロンドンパンクの代表となった。 2002年ロックの殿堂入り。 またこのバンドはファミリー制をとっており、メンバーが、ジョーイラモーン、ジョニーラモーン、DDラモーン、CJラモーンと全員ラモーン姓を名乗るのだが、第一コンバットもラモーンズを見習いタクヤイチコン、エイスケイチコン、ショウタイチコンとイチコン姓を名乗るファミリー制をとっている(除くヒコ)。他にファミリー制をとっているバンドには、ヘラコプターズやThe Donnasなどがいる。ちなみに、ラモーンズのラモーンは、ポールマッカートニーがハンブルグにいたときに名乗った芸名「ポールラモーン」から拝借したものらしい。 なお、10年経った今でもエイスケイチコンはラモーンズを愛しているようで、ラモーンズのTシャツを着てニコニコしているエイスケ氏を頻繁にみることができる。 ※3 セックスピストルズ ロンドンパンクの代表格。 アルバム「Never Mind TheBollocks」が発売された1977年はタクヤイチコン、エイスケイチコンが生まれた年でもある。 2代目ベーシスト、シド・ヴィシャスはベースもろくに弾けなかったという話もあるが、1979年ドラッグのオーヴァードスで死亡し、以後「パンクの精神」と呼ばれその崇拝者は多い。 1996年、再結成を行い来日し、タクヤイチコン・エイスケイチコンは共にみにいくこととなる(次回につづく)。 ※4 オフスプリング カリフォルニア州オレンジカウンティ出身のパンクロックバンド。 1994年発売のアルバムsmashで世界的ブレイク。 ライブでは演奏は上手くないことが多いのだが、ダッチワイフを持ち込んだりビールで乾杯したりとバカまっしぐらなところがキッズのこころをがっちりキャッチ。 ネアカでポップなサウンドにタクヤイチコン、エイスケイチコンは強く影響をうけており、この二人で作曲を行うと、えてしてオフスプリングのような「掛け声万歳」みたいな曲になりがちである。 なお、第一コンバットも2004年頃スタジオ練習でオフスプリングの"BAD HABIT"をコピー練習している。 ※5 パンクオーラマのアルバム バッドレリジョンのギタリスト、ブレット・ガーヴィッツが設立したLAのパンクロックレーベル「エピタフレコード」から出されたコンピレーションアルバムシリーズ。ここではその中でも1994年発売のシリーズ最初のアルバムをさしており、オフスプリング、NOFX、ランシド、ペニーワイズなどのいわゆるメロコアブームの先駆者達がずらりの名盤であった。 いわば第一コンバットができあったその時代はアフターニルヴァーナからその後どうなる?みたいなロックの過渡期の真っ只中の時代であった。 なお、パンクオーラマは2005年にVol10が発売されいるというパンクのくせにやけに長寿な企画アルバムである。 ※6 人気漫画「Nana」 いわずもがな矢沢あい原作の漫画。映画化も成功し、続編もつくられるらしい。 漫画に出てくるバンド、ブラックストーンことブラストはパンクバンドとのことで、セックスピストルズがたまに会話に登場する。 なお、現在の第一コンバットメンバーではヒコとタクヤイチコンが「Nana」にはまっている。 ※7 グレン・マトロック セックスピストルズの初代ベーシスト。普通、セックスピストルズのベースといえばシド・ヴィシャスなのであまり知られていないが、1996年再結成のときは彼が来日した。 脱退の理由は、彼がポールマッカートニーが好きだと公言したことらしいが、同じパンクでもラモーンズでは許されて、ピストルズでは許されないとはいかにロックが単調そうにみえて複雑な世界であるかを感じずはいられない。 ボーカル、ジョンライドンの暴露本によると、そもそもグレンマトロックの家は敬虔なクリスチャンだったらしく、その辺もセックスピストルズを続けられなかった理由らしい。 なお、タクヤイチコンはこのグレン・マトロックのプレイをみてベースぐらいならおれにもひけるんじゃないかと錯覚したという点で第一コンバット結成への原動力となったグレンの存在は大きい。 グレンマトロックは一時期プライマルスクリームの演奏メンバーとしてプレイしたりもしていた。 ▲
by yokajihideki
| 2007-01-10 03:12
| 実録 第一コンバット十年史
「キックボクサーシンドローム」 作曲:タクヤイチコン 作詞:タクヤイチコン 編曲:第一コンバット テンカウント 記憶が飛ぶ ナインカウントリングの上 エイトカウントまぶたがひらく セブンカウント血の味舐める シックスカウントセコンドの声 ファイブカウントロープを握る フォーカウント片膝立てる スリーカウント観客を見る ラスト2秒で立ち上がる ファイティングポーズ決めて お見舞いは倍でかえす Wow Wow Wow ★俺は キッ キッ キックボクサーなけなしの金はくれてやる 俺は キッ キッ キックボクサー負けるわけにいかない 俺は キッ キッ キックボクサー腰のベルトは誰にも渡さない 俺は キッ キッ キックボクサー君のハートにキック☆ノックダウン!★ テンカウント 拳振り切る ナインカウント相手が飛ぶ エイトカウントリングに落ちる セブンカウント右手上げる シックスカウント相手がうめく ファイブカウント睨みつける フォーカウント確信をする スリーカウント観客を見る ラスト2秒はおれのもの 勝利のおたけびあげる ドラマチックなノックダウン Wow Wow Wow (★パート) おれの魂 込められたキック サンドバックを 響かせる拳 額の汗と こみあがる思い 君の心に届け 俺は キッ キッ キック キッ キッ キック 俺は キッ キッ キック キッ キッ キック 俺は キッ キッ キック キッ キッ キック 俺は キッ キッ キック キッ キッ キック (★パート) ▲
by yokajihideki
| 2007-01-08 02:12
| 歌詞
「スターリン」 作曲:エイスケイチコン 作詞:タクヤイチコン 編曲:第一コンバット ソビエトが崩壊した朝 食パンをかじってた 90年代の はじめのころだった ミルクを飲み干して 新聞を読みつづけた 歴史の教科書に ページが加わった スターリン 君は強かったらしいね レーニン・フルシチョフと共に ソビエトが崩壊した朝 食卓を囲んでた スターリン 君は強かったらしいね 僕はガガーリンが好き スターリン 君は強かったらしいね 僕はガガーリンが好き ▲
by yokajihideki
| 2007-01-05 02:17
| 歌詞
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