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アルバム 3rdアルバム“サンコン”4thアルバム"ヨン婚"はiTunes Music StoreやAmazon等にて
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結成から8年目、ようやくまともなバンドレベルにまで行き着こうとしていた矢先に、ノリコイチコンが大検受験のため、滋賀県へ帰郷するという事実はショッキングなものであった。
そして、その事実に一番ショックを受けていたのは、他ならぬエイスケイチコンだったのかもしれない。フジロックオーディションの応募用にオリジナル曲までできあがり、後はライブするだけだったのに、結局、第一コンバットは、ライブというレースに未出走のまま、終わってしまうのか?彼は、たとえ第一コンバットが無くなってしまおうとも、その爪跡を微かにでも残したかったのかもしれない。当時、阿佐ヶ谷に住んでいたエイスケイチコンは、フジロックオーディンション用に録音したCD-Rを片手に、隣のロックな街、高円寺のライブハウスへ、ライブに出演したいと売り込み営業をした。 彼の熱意が通じたのか、2005年10月19日、高円寺Showboatでの、第一コンバットの初ライブが決まった。高円寺Showboatは、当時、ブサイクなのに飛ぶ鳥を落とす勢いだったサンボマスター(※1)が初ライブをしたという場所でもあり、その事実は、第一コンバットをワクワクさせるものであった。なんせ、結成から8年目にしてようやくたどり着いた初ライブである。 ノリコイチコンは大検の勉強のため、既に初ライブの頃には、滋賀県へ帰郷していたが、第一コンバット、最初で最後になるかもしれないライブには、当日新幹線で駆けつけ、出演してくれることになった。 初ライブでもあり、当日は、メンバーの友人達も駆けつけてくれ、2桁を超えるお客様となったため、3バンド中、1バンド目の出番ではあったが、ライブ前から会場は盛況であった。 バンドの控え室では、メンバーが衣装に着替えていた。エイスケイチコンは、AC/DCのアンガス・ヤング(※2)に影響されての、半ズボンのネクタイという、スクールキッズスタイルであった。 タクヤイチコンは、衣装のテーマを「覆面」「プロレス」に絞り込んでいた。なぜなら、プロレスファンは、ロックファンと親和性が高く、プロレスファンを掴めば、バンドファンを獲得できるのではないかという一つの仮説をもっていたからである(※3)。また、「覆面」についても、当時、勢いのあったSlipknotをはじめ、ロックとの親和性が高かった(※4)ことから、タクヤイチコンは、ザ・グレート・ムタ(※5)のムタの覆面(赤色Version)を被り、登場することとした。しかし残念なことに、この覆面は、袈裟みたいな覆面のため、ボーカルなのに口が塞がれてしまうため、途中から脱がなければならない欠点があった。そこで、赤いグレートムタのように、覆面を脱いだ跡も、顔を赤くペイントでメイクをした状態しておくことが必要であった(なお、グレートムタの赤いペイントの顔が分からない方は、スターウォーズの赤いダースモールの顔をご想像いただきたい)。 そこでタクヤイチコンは、あらかじめネットで購入しておいた、サッカーのサポーターが使用するフェイスペインティング用の剥がせる塗料を、楽屋の鏡をみながらペイントすることにした。しかしながら、その鏡の前にはなんと先客がいたのだ。「まことちゃん」の作者である、楳図かずお先生が召されているような、違和感のある、横縞の赤いボーダーシャツを、それぞれ着た女性が二人、鏡の前に並んで、なんと顔を白塗りしているのである。それは、第一コンバットの次に出る順番だった、スウィング☆パァルという対バンさんであった。 白塗りでロックといえば、KISSや 聖飢魔II、デトロイトメタルシティのクラウザーさんなどがあげられるが、どちらかというと和的な顔立ちの女性二人であったため、ロックと、楳図かずおシャツを着たバカ殿みたいなところのギリギリの線のところにあった。いや、むしろ、2015年の現代から振り返ると、日本エレキテル連合を既に10年前に地でやってしまっているという非常に先鋭的なものであった。 そんな楳図かずお風バカ殿白塗り女性が2人、鏡の前で一生懸命、白塗りをしているのだが、タクヤイチコンのほうが、出番が彼女たちよりも先のため、彼女たちの中に割ってはいって、自分は顔を赤塗りにしなければならない。そしてその鏡にはタクヤイチコンも加わり、黙々と3人が顔を塗っていくという異様な光景が生まれたのだ。 そう、第一コンバットの初ライブの控え室では、既に、白塗りと赤塗りの、熾烈な紅白歌合戦が繰り広げられていたのである。 ※1 サンボマスター 当時の高円寺Showboatの店長が、ギターボーカルの山口隆氏の大学の先輩であったことから、初ライブの場所がShowboatとなったらしい。なお「サンボマスターじゃねぇよ」は、「角野卓造じゃねぇよ」「シュレックじゃねぇよ」とともに、ハリセンボンの近藤春菜の3大ギャグの一つ。 ※2 アンガス・ヤング オーストラリアを代表する世界的ロックバンド、AC/DCのリードギタリスト。ブレザー、半ズボン、ハイソックスにランドセルを背負ったスクールボーイスタイルは彼の代表格。なお、最近では、リズムギターのマルコムヤングが認知症で脱退、ドラマーのフィルラッドが殺人依頼の罪で逮捕されるなど、何かとAC/DCの周りが騒がしくなっている。 ※3 プロレスとロック スターとなったレスラーには、必ずといっていいほどロックの名曲が入場曲となっている。参考として、ロック的に有名なバンドの曲で格闘家入場テーマ曲として使われたものをピックアップしてみると、 アブドーラ・ザ・ブッチャー/ピンク・フロイド「吹けよ風、呼べよ嵐」 アンディ・フグ/クイーン「We Will Rock You」 大仁田厚/X(LA)「Wild Thing」 K-1GPテーマ/プリンス「Endoruphinmachine」 K-1 WORLD MAXテーマ/ガンマ・レイ「INTRODUCTION」 ゲーリー・オブライト/AC/DC「Thunderstrck」 ゲーリー・グッドリッジ/クイーン「We Will Rock You」 スティーヴ・ウィリアムス/キッス「I Love It Loud」 ダイナマイト関西/プリティ・メイズ「NIGHT DANGER」 田上明/イングヴェイ・マルムスティーン「Eclipse」 WWEサバイバーシリーズ2003/リンプ・ビズキット「Build A Bridge」 蝶野正洋/ロイヤル・ハント「Martial Arts」 ハルク・ホーガン(WWE)/ジミ・ヘンドリックス「Voodoo Child/Slight Return」 ピーター・アーツ/ガンズ・アンド・ローゼズ「Sweet Child O' Mine」 ビッグ・バン・ベイダー/レインボー「Eyes Of The World」 PRIDEテーマ曲/レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン「Guerrilla Radio」 ブルーザー・ブロディ/レッド・ツェッペリン「Immigrant song」 前田日明/キャメル「Captured」 武藤敬司/ロイヤル・ハント「Triumph」 ザ・ロード・ウォリアーズ/ブラック・サバス「Iron Man」 なお、第一コンバットが初ライブでもカバーしている、長州力のパワーホールであるが、これは平沢進というミュージシャンが作曲した曲で、ゴリゴリのロックというよりも、テクノ的な要素が強い。 ※4 覆面とロック 覆面とロックといえば、slipknot以外にも、ケンタッキーフライドチキンのバケツを被りながら、白い覆面で超絶ギターをバケットヘッドや、リンプビズキットのウェスボーランドなどが挙げられるが、「覆面を被ると暑い、蒸れる、声をだしづらい」という根本的な問題はつき物であり、覆面による神秘性を得られるとともに、そのデメリット感も少なくはない。またグレートサスケ議員のように、「覆面レスラーの覆面を被った議会への参加」の是非は大きな社会的な問題となったが、覆面バンドマンが議員になった場合、また、同じ議論が生じるのではないかという懸念もある。 ※5 ザ・グレート・ムタ プロレスラー武藤敬二が、海外修行中に演じていた、悪役覆面レスラー。ギミック上はザ・グレート・カブキの息子という設定らしい。なお、ザ・グレート・カブキは引退後、飯田橋で「串焼き・ちゃんこ かぶき」をやっており、なかなか美味いお店である。 ▲
by yokajihideki
| 2015-06-07 13:23
| 実録 第一コンバット十年史
フジロックに送付するための楽曲の録音は、たった約1ヶ月で終わった。出る、出ると言っては全然リリースされなかったガンズの “Chinese Democracy”(※1)のごとく、2013年リリースの4thアルバムのヨン婚の完成までに5年以上もかかってしまっている、後の第一コンバットのことを思えば、当時の第一コンバットはEpitaphレーベル(※2)のパンクバンドのように、とても俊敏であった。
フジロックの応募用のカセットテープに吹きこまれた曲は「よぉ!カジヒデキ」に加え、“革靴の底に蓄積されたゴミ”とか“不眠症の薬:ドリエル”などを歌詞にした、全然キャッチーではない暗い、ヘヴィーなリフ曲の「イカれモーメント」と、戦後栄えていく秋葉原と、2000年以降衰退していく日本の家電産業について歌った「ラジオセンター」というミクスチャーの曲であった。こうやって振り返ってみると、初期の第一コンバットのオリジナル曲は、ノリコイチコンのベース力をフルに活用するためにも、とてもミクスチャーに寄っていたことがわかる。 そんな頼れるベーシスト、ノリコイチコンが、深刻な顔をして、ある重大な決意を、エイスケイチコン・タクヤイチコン・ヒコに告げたのは、フジロック用のデモテープができあがった頃だっただろうか。 「私、バイトを辞めて、実家のある滋賀に戻ります」と。 結成から8年目、ようやく、まともなバンドレベルまでに行き着こうとしていた矢先の、彼女の重大決意に、我々は動揺した。本来であれば、バンド活動を順調な軌道に乗せるため、「そんな琵琶湖しかない滋賀県に何も戻らなくても」と、必死の引き止めの説得工作を図るのであるが、説得をはばかられる、重い理由を、我々は覆せそうになかった。 一般的な女子高生の年齢で上京した彼女の経歴は、高校を中退して、男に連れ添い上京し、そのまま同棲を始め、ベーシストになることを憧れてフリーターをしていたという、いわば女性ロックンローラーとかパンクロッカーという視点でみると超エリートな経歴であったが、一般社会における通常の概念に置くと、前途有望とは、決して言いがたかった。ましてベーシストを夢見ているのに、属しているバンドが第一コンバットなのであるからして、ダメ人間な人生に片足を突っ込んでいる状態であることは、我々も否定できなかったのである。 そんな彼女が、バイト先の漫画喫茶に毎日来店されるホームレスな人々を見ているうちに、自分の将来に不安を感じ、「大検を受けて、大学受験をするために、滋賀に戻る」と言い出したのである。そんな正しい理由に対して、我々に止める権利はあるだろうか?いやむしろ、第一コンバットというダメなバンドに、インターネット上で出会ってしまったが為に、こんなダメな人生のベクトルに向けてしまった我々にも、彼女をここで真っ当な道に進ませる責任があるのではないか? こうして、彼女の人生の岐路は、順調に進みだしたかにみえた第一コンバットの活動の岐路ともなったのである。 ※1 ガンズの“Chinese Democracy” 2008年11月にリリースされた。ガンズ・アンド・ローゼズの4枚目のスタジオアルバム。約14年と約14億円の費用を費やして制作されているが、USでも日本でも、チャート4位までしか獲得できず、セールス的には失敗に終わった、残念なアルバムの代表的作品。日本人の口にあわないことで有名な飲料、ドクターペッパーは、もはやチャイニーズデモクラシーのリリースは都市伝説レベルだと判断したのか、「もし『チャイニーズ・デモクラシー』が2008年内に発売されたら、バケットヘッドとスラッシュを除くアメリカ全国民に、無料でドクターペッパーを提供する」と発表したが、まさかの予想外の2008年のリリースにより、希望者に無料クーポンを送付せざるを得ない羽目になった。 ※2 Epitaphレーベル バッドレリジョンのギタリスト、ブレット・ガーヴィッツが設立したLAのパンクロックレーベル。オフスプリング、NOFX、ランシド、ペニーワイズなどのいわゆるメロコアブームの先駆者達がずらりのコンピレーションアルバム”Punk-O-Rama”は、若き日のエイスケイチコン、タクヤイチコンにも多大なる影響を与えた。1994年に発売されたPunk-O-Rama Vol.1以降、このシリーズは、1~2年に一度、シリーズとしてリリースされ続き、林下家ばりの多産なアルバムとなったが、2005年リリースのVol.10がシリーズの最後となっている。 ▲
by yokajihideki
| 2013-11-24 12:10
| 実録 第一コンバット十年史
プロレスラー橋本真也が、若くしてこの世を去った2005年。ライブも経験することなく過ごし、既に結成8年目となった第一コンバットは、この年、大きな変革期を迎えることとなる。 2004年の秋から続いていた、楽曲コピーによる練習も、マリリンマンソンあたりをコピーしだす頃になると、そろそろ倦怠期が訪れはじめていて、「どうして、我々はマリリンマンソンをコピーしているのか?」という哲学にぶちあたり始めるのである。究極のマリリンマンソン信者であれば、自分達が満足できればそれでいいのだが、特に信者といったわけではない。コピーして特にかっこいいわけでもないし、爽やかな気分になるわけでもない。もちろん世の中の役になんか、さっぱり立たない。「あれ、どうして僕たちはマリリンマンソンをコピーしているんだろう?」と、ふと我に返ったのである。 そんな第一コンバットが、「よぉ!カジヒデキ」に続く、オリジナルナンバーを作ろうとする流れは、ごくごく自然なのであったが、実は、オリジナル曲を作ろうとした、もう一つ大きな動機があった。それはフジロックフェスティバルだった。 第一コンバットと時を同じくして1997年に誕生したフジロックは、もはや日本を代表するロックフェスティバルであった。そんなフジロックには、新人アーティストの登竜門として”ROOKIE A GO-GO”というステージがあり、現在でも、毎年、出場者のオーディションを行っている。サンボマスターやASIAN KUNG-FU GENERATION、BACK HORNなんかも、ここから世に出ていったバンドであった。 そんな舞台に第一コンバットも立つしかない。そのためには、「オリジナルの楽曲を3曲デモテープに入れて、フジロック事務局まで送付する」ことが必要であったのだ。 そして、まだライブさえ、一度もやったことのない第一コンバットは、フジロックに出場するために、「よぉ!カジヒデキ」に加えて、あと2曲のオリジナル曲を作曲しはじめるのであった。 ▲
by yokajihideki
| 2013-11-17 15:03
| 実録 第一コンバット十年史
2004年の秋から冬にかけては、
ギター、ベース、ドラム、ボーカルという、 形だけはバンドとして体をなしはじめたので、 とにかくコピーを中心とした練習が行われた。 長い歴史を持つ第一コンバット史上、 この時ほどコピー練習をやったというのは 後にも先にも、この時期だけだったといえよう。 基本的には、メンバーそれぞれが やりたいと思った曲を事前に持ち寄り、 練習するという自由形式であったため、 特に何かのジャンルというわけではなかった。 また、よく普通のコピバンで行われる コピーのように、もの凄く細部まで真似るといった やり方はせず、あくまでだいたいをコピーするというやり方が 第一コンバットの練習法であった。 (おそらくそれは結果論であって、そもそもメンバー共通の関心が あるわけではないので、みんな、他人が持ってきた曲は、 適当に演奏していたからであろう) 持ち寄られた曲の主なものは下記のとおり。 Eat the Rich /AEROSMIITH Bomb Track/RAGE AGAINST THE MACHINE Minus/BECK Are You Gonna Be My Girl?/JET Welcome to the Jungle/GUNS & ROSES Beautiful People/MARILYN MANSON Hush/KULA SHAKER Plush/STONE TEMPLE PILOTS Self Esteem/OFFSPRING Otherside, Californication/RED HOT CHILLI PEPPERS Today/SMASHING PUMPKINS Wish You Were Here/INCUBUS Overkill/MOTORHEAD 8月の秘密/BACKHORN ガッツだぜ/ウルフルズ 東京/くるり Mustang A Go Go!!!/DRAGON ASH ラブラブ・マンハッタン/TOKIO US、UKから、果てはジャニーズまでと、 見るからに、メンバーの統一感のなさが露呈している 練習曲のリストであるが、 この練習曲が、その後の第一コンバットの土台と なっている部分は大きい。 以下はあくまで、私の個人的解釈であるが、 例えば、構成要素的には、 AEROSMIITH→「バツイチレイディ」「Hey!漢方」 RAGE AGAINST THE MACHINE→「ラジオセンター」「拉致に気をつけろ」 RED HOT CHILLI PEPPERS→「ウランバートル」「Hey!漢方」 ウルフルズ→「Hey!漢方」「おっさん選手権」 BACKHORN→「ラーメン独立戦争」 GUNS & ROSES→「キラーティーチャー」「ジャングル温泉へようこそ」 MOTORHEAD→「ごめんなさいロック」 といった、その後の第一コンバットを代表する各曲に、 少なからず影響を及ぼしているということがうかがえるのであり、 第一コンバットの初期アイデンティティや、 メンバーにおける共通言語を形成していった プロセスといえるのかもしれない。。。 なんていってしまうと、 まるで、コピーでは飽きたらず、 オリジナルに進んでいったかのようであるが 残念ながら、そうではなかった。 そもそも、コピーというのは、 前述のように、 物凄く上手い本物のバンドがいて、 それを完全に細部までコピーしていくというのが コピーの醍醐味である。 だから、世の中には、 アマチュアバンドのくせに めちゃめちゃ上手いおっさんコピーバンドとかは 山のように存在する。 しかしながら、当時の第一コンバットには、 コピバン道を渡り歩くという、 技量もなければ、英語も下手だし、 なんせ、努力も忍耐力もないバンドであった。 だから、しかるべくして、 第一コンバットはコピーバンドの道を歩まなかった、 いや歩めなかったのである。 ▲
by yokajihideki
| 2011-12-21 18:05
| 実録 第一コンバット十年史
翌週、スタジオに現れたノリコは、
与えられていたコピーの宿題を簡単にこなし、 まさにベーシストといったかんじであった。 それもそうであり、ノリコは滋賀時代にライブハウスで ライブも経験している、いわば経験者である。 (一方の第一コンバットは当時、結成既に8年近くになるのに、 まだライブというより、人前で演奏もしたことのないバンドであった) そして、そんなノリコをみるエイスケイチコンもヒコも、 突如現れたティーネージャーベーシストを 気遣いながら、終始ニコニコ顔であった。 タクヤイチコンを無視しながら、ひたすらジャムり続ける あの頃とは打ってかわっての雰囲気のよさである。 しかしながら、ここにまた、スタジオの隅で、 1人頭を悩ませている、落第生がいた。 タクヤイチコンである。 ノリコの加入により、クビが危ぶまれたタクヤイチコンであるが、 “ヴォーカルでいていいよ、とりあえず誰もいねぇし”みたいな 雰囲気がちょっとあったような気もしたので、 「人生でまぁ滅多にできる経験でもないしぃ~」、ということで 試しに、カラオケ気分の軽い感じで、居座ってみることにした。 しかしながら、ノリコが加入したことにより、 よりバンドらしくなった、ベー・ドラ・ギターの演奏に対し、 タクヤイチコンの歌だけが、明らかに異質であるということは、 関西人でなくても突っ込まざるえない状況であった。 そして、タクヤイチコンにとって、 自分の下手クソな歌を、 どうやって歌えば、下手くそ感を ごまかしていけるかという、 ズブズブの泥どろの戦いに埋もれていくこととなった。 ところがそれは、普通でいうところの、 素直に歌を上手くなろうとする努力よりも、 困ったことに、ちょっと違う発想のアプローチだった。 例えば、ある日は、マイクを買いにいって、 それでゴマかせるんじゃないかと試してみたり。 また別の日は、ボイスエフェクターを買いにいって、 ロボットボイスやデスボイスを試してみたり。 またある日は、とにかくハイトーンボイスで歌えば、 AC/DCやガンズ&ローゼズや、スマッシングパンプキンズ※1のように ロックっぽくなるのではないかと思い込み、 どんなキーの曲でも無理やりハイトーンで歌うという キチガイじみたアプローチまで行うようになった。 最近、そんな誤った考え方をもっていた時代の 狂気の音源が、みつかったので、本日の特典音源として リンクしたい。 <特典音源 第一コンバット 過去のスタジオ音源より> 2004年11月 Red Hot Chilli Peppers のカバーで 「Other Side」 http://www.youtube.com/watch?v=Vmam92-iipI&feature=player_embedded ▲
by yokajihideki
| 2011-08-15 17:36
| 実録 第一コンバット十年史
明らかにこのバンドに足りないものは、ちゃんと弾けるベーシストであった。
そしてロック好きなタクヤイチコンにとって、ある1つの興味が沸いていた。 目の前で嫌がらせのようにひたすらジャムるエイスケイチコンとヒコに、ちゃんとしたベーシストを加入させるというどうなるのだろうか? 化学反応は起こるのだろうか? もしかしてこのバンドは、自身が足を引っ張っているだけで、本来的には、その次のステージがあるのではないか?あるのであれば、試しに観てみたいという気になったのである。 そこでふと妙案を思いつく。 滋賀の高校を中退して、男と一緒に上京していたノリコを第一コンバットに巻きこんでしまえばいいのではないかと。 ノリコのベースプレイについては、一度たりとも見たことも、聴いたこともなかったが、5弦ベースを弾いているというのだから、下手なわけがない(当時のタクヤイチコンには、4弦よりも弦の多い、5弦のベースを弾くプレイヤーは上手なプレイヤーに違いないという偏見があった。5弦ベースを持つ人は、武術でいえば、黒帯・師範レベルであると思っていたのである)という確信があった。 まして、ノリコイチコンは、ネット上に公開していた、第一コンバットの音源「よぉ!カジヒデキ」に興味を示していたことも覚えていたので、こと都合がよいように思えたのだ。 第一コンバットにノリコを加入させるという戦略は、ちょうど同じ頃に、萩本欽一氏が、欽ちゃん球団を設立した時の戦略と似ている。 欽ちゃんは、野球がやりたかった。 ピッチャーとしてプレイヤーでありたかった。 しかしながら、欽ちゃん自身の実力を考えると、自分の力だけで、強いチームを作ることは困難だと悟っていたし、そもそも「おっさんが野球をする」というシチュエーションは、ごくありきたりで、応援する側にとっても何らつまらないものであるとも悟っていた。 そこで、男子選手の中においても引けをとらない実力があり、かつ当時、美少女女子高生であった片岡安祐美をチームに加入させることで、欽ちゃん球団としての実力をアップさせるともに、人気を獲得していったのであった。 そこで、この妙案を、エイスケイチコンとヒコに打ち明けてみることにした。 これは同時に、タクヤイチコンの引退宣言にも繋がることなので、タクヤイチコンにとっては、やはり多少の勇気のいるものでもあった。 「あのさぁ、女子高生くらいの年齢で、ベースの上手いであろう子がおるんやけど、一度、打診してみようか?」 すると、それまで、タクヤイチコンの存在なんかは気にすることはなく、嫌がらせのようにひたすらジャムっていた2人は、ピタッと、すぐに手を止め、 エイスケ「なにそれ?呼ぼう!呼ぼう!」 ヒコ「どんな子?」 タクヤ「上戸彩みたいなかんじかな?」 ※確かに当時は若かったこともあり、上戸彩にちょっと似ていると言っても 違和感ないくらいのかんじであった。 ヒコ「来週呼ぼう!」 こうして、彼らは、一言さえもタクヤイチコンを慰留の言葉をかけることもなく、頭の中は、新しい上戸彩似のベーシストへの期待で、一杯になっていた。 そんな彼らのあからさまな態度の急変は、今まで、ひたすらジャムってばかりいたのは、むしろタクヤイチコンに自発的に辞職してもらって、新しいベーシストを連れてきてもらうための嫌がらせだったんだよと、言わんばかりの変わりようであった。 <つづく> ※結成から10年以上を大きく過ぎてしまったことから、今回から、タイトルが「実録 第一コンバット十年史」から、「実録 第一コンバット十五年史」に変わりました。 【特典音源】 今回は、特典音源として、文中にも登場した、2000年2月に録音された「よぉ!カジヒデキ」の音源をリンクします。 当時の制作・レコーディングの状況については、「実録 第一コンバット十年史」の第10話、第11話をご参照ください 。 第10話 http://yokaji.exblog.jp/7289080/ 第11話 http://yokaji.exblog.jp/7289120/ 2000年2月制作版 「よぉ!カジヒデキ」はこちら http://www.youtube.com/watch?v=nE4W-2QM_MU&feature=player_embedded とてもよくできた編集のおかげで、もの凄くベースが上手く聴こえますね。 歌詞もよく聴くと、今のバージョンよりも、マニアックな単語が含まれたりしています。 なお、3rdアルバムの「サンコン」制作時の2008年に再度、現メンバーでレコーディングされた「よぉ!カジヒデキ」は、こちらにアップされ、確実に炎上されておりますが、お聴き比べいただくこともできます。 2008年制作版 「よぉ!○○ヒデキ」 http://www.nicovideo.jp/watch/nm4084799?via=thumb_watch ▲
by yokajihideki
| 2011-06-18 02:07
| 実録 第一コンバット十年史
エイスケイチコンとヒコが練習するスタジオに渋々足を運んだタクヤイチコンは目を見張った。 エイスケとヒコはジャムっていた(※1)のである。 それまでの第一コンバットのスタジオ練習といえば、その日にみんなで合わせるお題の曲が事前に決められていて、それを当日みんなで、「せーの」で合わせて練習するというやり方であった。 確かにその日も、incubusの「wish you wer here」やくるりの「東京」(※2)等がお題として設定されていたのだが、そんなお題に対する演奏は10分程度で終わってしまい、あとは、ひたすらエイスケとヒコがジャムっているのである。 ところがまいったことにタクヤイチコンはジャムっているのをベースを抱えたまま、ぼぉっと見ているしかない。なぜなら、タクヤイチコンは耳コピができないから、今演奏している音のコードが何かわからないし、 例えそれがわかったところで、ベースのどこをおさえてその音を出せばよいかなんて到底わからなかったからだ。 そんな状況にも関わらず、その日のあとも、エイスケイチコンはタクヤを練習にしつこく誘うので、タクヤはスタジオに行ってみるのだが、ただ、エイスケとヒコがジャムっているのを2時間程、見ているしかなかった。 そしてそんな退屈で、苦痛でしかない時間の中、タクヤの脳裏にはある二文字が浮かんでいた。 それは横綱・千代の富士が、新鋭・貴花田に完敗した時に感じたものとある種、一緒だったのかもしれない。 もう僕のベースでは新しい時代についていけない。 時代の潮流は変わったのだと。 <つづく> ※1ジャムる ジャム・セッションの動詞形。 基本的な軽い流れだけどを最初に決めて(決めていないこともある)アドリブで合わせること。その場のノリを耳で把握し、瞬時に演奏することが求められるため、「耳コピができる」、「基本的なコードが理解できる」といったレベルに達していないと、ジャムれない。 ※2 くるりの「東京」 くるりのボーカルの岸田氏が1997年の第1回フジロックの2日目を観るべく関西から上京したきた際に、台風で公演が中止になってしまい、やることがなくなって東京の公園でボッーとしていた時に生まれた曲。 なお、タクヤイチコンはその前日の初日からフジロックに行っていたため、中止になった二日目は台風でズタボロになってバスで眠って関西に帰ってきた。 ※3 千代の富士 第58代横綱。人気漫画「キン肉マン」のキャラクター「ウルフマン(アニメ版ではリキシマン)」のモデルとなった相撲取り。1991年の5月場所初日に、貴花田に敗れ、その二日後、現役を引退した。 ▲
by yokajihideki
| 2009-08-18 02:07
| 実録 第一コンバット十年史
2002年のアキライチコンの失踪に加え、タクヤイチコンはさっぱりベースを握らず既にベースを弾けなくなってしまっており、第一コンバットは全く機能しなくなっていた。
たぶん、この時点で実質的な第一コンバットの息の根は止まっていたのだと思う。結成から6年が経ち、ライブという晴れ舞台を一度も踏むこともないまま、自然消滅していたのだ。そうそれはまるで、蝉の幼虫が地中であっさり息絶えるかの如く、まったくもって地味で無意味なバンド生態だったのだ。 そんなことを知ってか知らでか、エイスケイチコンは日々家で黙々とギターを引き続けていたようだ。 そしてそれだけでは飽きたらなかったのか、彼の会社の同期にドラムを叩ける者がいて、その男とスタジオに入っているらしかった。 その男の名前はヒコ。 後に第一コンバットの3代目ドラマーとなる男である。 エイスケは、頻繁にヒコとスタジオに入っている様子であった。 「なぁなぁ、会社でさ、ドラム叩けるやつがいてさ、そいつがドラム上手いんよ。おまえもスタジオ入らへんか」 とエイスケがいうのだが、練習不足でベースを弾くことさえままならないタクヤイチコンは「ふ~ん」と聞き流す。 そんなやり取りが10回は続いたのではないだろうか。正直なところ、タクヤはもうベースを握ることがめんどうくさくなっていたのだ。 「お風呂入ったあと、ベース握ると、手の皮むけちゃって痛いしなぁ」とか、「タブ譜(※1)に並んでる数字を覚えるのめんどくさいよなぁ」とか、そんな後ろ向きのことしか考えられなくなっていたのである。 しかしエイスケの勧誘はしつこかった。余りにしつこく誘うので、「まぁ、暇だから行ってみるわ」とつい言ってしまったのである。 <つづく> ※1 タブ譜 タブラチュア譜、奏法譜ともいう。 記譜法の一種で楽器固有の奏法を文字や数字で表示するもの。 ギターの場合、弦が6本あるので、6本の線で譜面が示されており、指で押さえるべきフレットの場所が数字で示されている。ベースの場合は4本しか弦がないので、譜面は4本線でより単純である。耳コピができない人や五線譜が読めない人でもこのタブ譜通りに指を押さえれば楽器を弾けますよという優れた譜面であり、いわば音楽ハンデを持つ人がそのハンデを克服できる補助ツールである。 しかしながら、タブ譜に頼りすぎると、演奏する曲が増えれば増えるほど、ひたすら数字を暗記しなければならない状況に陥ることとなり、最終的には、楽器の練習をしているのか、記憶力を鍛えているのかわからないこととなる。 ▲
by yokajihideki
| 2009-08-18 01:07
| 実録 第一コンバット十年史
アキライチコンの失踪により、もはや第一コンバットの息の根が止まるか止まらないかとなっていた時と同じ頃。
滋賀県琵琶湖周辺に住む中学生の14歳の少女は、持って生まれた多感な性格からか、ちょっと変なサイトに興味を持つようになっていた。 少女の名前はノリコ。後に、ノリコイチコンという、けったいな名前をつけられる羽目になってしまう少女である。 少女ノリコは、当時、ちょっと好きになっていたバンド、オフスプリングについて調べてみたところ、そのオフスプリングのベース、グレッグKさん(※1)について適当なことを書いてあるサイト「イチコン荘」に出くわしてしまった。 このサイトではタクヤイチコンが、ろくすっぽベースも弾けないくせに、地味なベーシストの生き様について、毎回著名バンドのベーシストを取り上げ、適当に連載していたのだが、その適当っぷりが何人かの読み手のツボにはまってしまったようで、ノリコもそんな読み手の一人であった。 当時のノリコはいかんせん若くて影響されやすかったのか、その連載を読んで、自分もベースを弾きはじめたいと思い、ベースを購入し、挙句、プロのベーシストとなることを目指すことを決意してしまった。 そして、高校生になったノリコは、メキメキとベースの腕を上げ、若気の至りか、その精神までもがロックすぎるものとなってしまっていた。 ある日、ノリコは決意した。 ベーシストになるのに、高校は必要ないんじゃなかろうかと。 (なおこの頃、ノリコにベースの道のきっかけを与えたタクヤイチコンは、練習不足すぎて、既にベースが弾けなくなっている) そして、高校を自分から辞めてしまったノリコは、当時の恋人の上京をきっかけとして、自分もベースを片手に上京することとなった(まるでNanaみたいだよね、ウン。) <つづく> ※1 グレッグK 本名グレッグ・クリーセル。オフスプリングのヴォーカル、デクスターと幼馴染であったことから、1984年、バンドを結成。デクスターが立ち上げたNitoroレーベルの副社長をもつとめ、実質的にはNo2のはずであるが、ステージ上では最も地味な存在で、用務員出身のヌードルズのほうが目立っている。なお、ハイスクール時代は、デクスターとともにクロスカントリークラブに所属していた。 ▲
by yokajihideki
| 2008-02-17 22:54
| 実録 第一コンバット十年史
2000年3月、第一コンバットのメンバー4人は無事大学を卒業。それぞれ就職し、エイスケイチコン、タクヤイチコン、アキライチコンは首都圏に配属となる一方、ドラマーのシンスケイチコンは大阪で就職という形となり、シンスケイチコンの事実上の脱退という結果となった。
そして、第一コンバットの活動の場は、関西圏から関東圏へと動くこととなったのであるが、いかんせんバンドという組織体において、メンバーを集めるのにもっとも難しいのがドラマーという職種であり、またドラマーがいないバンドは、バンドとして格好を成さない。そこで、ギターであったアキライチコンがドラマーを勤めることにより、第一コンバットが関東圏で維持されることとなった。 第四期 第一コンバットメンバーは以下のとおり ・エイスケイチコン(gu) ・タクヤイチコン(ba) ・アキライチコン(dr) とはいえ、このバンド、ドラムは即席である上に、タクヤイチコン・エイスケイチコンも社会人1年目ということで練習もままならず、スタジオ練習と称して、オアシス(※1)やオフスプリングを数曲カバーする練習をしようとしたものの、その演奏はオヤジバンドばりの崩壊寸前のものであった。 そしてそんなスタジオ練習は、2000年に埼玉県で2回程度行われたのだが、その後は、第一コンバットとしての活動はなくなり、今考えると、この頃から、事実上の第一コンバットの活動休止期間に突入したのであろう。 そんなかんじで、この3人が顔を合わせることも滅多になくなったのであるが、2002年秋頃、レッチリの埼玉スーパーアリーナのライブに一緒に行くことになった。 久々に顔を合わせたアキライチコンは、勤め先の銀行のリストラクチュアリングにより、行員全員がボーナスカットの話を物静かにこぼしていたのだが、これまで着飾ることの余りなかった彼が、首からチョーカーをぶらさげていたことに、これまでにない雰囲気の変化を僕は感じとったのを今でも覚えている。 そして、その直後からアキライチコンは音信がとれなくなり、消息不明となった。タクヤイチコンが連絡しようが、エイスケイチコンが連絡しようが、プツリと彼は行方不明となったのだ。 アキライチコン、本名スガワラアキラ 消息不明地:埼玉県 出身地:札幌 第一コンバットが未だに活動する理由は、名を挙げることによって、行方不明になったアキライチコンを探し出すこと。そうすればいつか、アキライチコンは僕たちのもとへ帰ってきてくれるに違いない。家出番組に出演する見捨てられた子供たちのように、エイスケイチコンとタクヤイチコンは声を張り上げて彼を探すのでした。 <つづく> ※1 オアシス イングランド・マンチェスター出身の1992年デビューした、いわずもがなUKのスーパーロックバンドでブリットポップ・ムーブメントの代表格。日本ではロック好きの中でも、比較的おしゃれさんが聴くこととなっているカテゴリーでもある。逆をいえば、合コンで「私、ロックが好きー!」という女性に、好きなバンドは?と聞いて「オアシス」と答える女性に、調子に乗って、あまりマニアックなロック話をしても、たいていウケが悪いので要注意。現在の第一コンバットでは、ドラマーのヒコが愛するバンドであるが、アキライチコンも愛好家であった。 ▲
by yokajihideki
| 2008-02-17 22:53
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